どうもダンスオタクの悲しさで『オズ』というと「青山航士さんがフォッシー調で踊る
」ことに舞い上がってしまいます。ああもう一曲、"Gotcha"みたいなナンバーがあればな〜、と思いますが、それだと当時のピーターがますます寂しそうに見えてしまうでしょうか。
ライザとのコラボをはじめとしてフォッシーが振付だけでなく演出・監督業でもあふれるような才能を発揮していた70年代、ピーター・アレンは妻ライザそしてクリス・ベルとも離れて、シンガーとしてソロ活動にはいります。彼がそのころ出演していたクラブBITTER ENDは今もグリニッチ・ビレッジでニューヨーカーの耳を楽しませているようですね。1961-2007とあるので去年閉店したのかと一瞬思いましたが、2008年のカレンダーどおりのスケジュール表がありました。おおらかですね〜、これが長寿の秘訣でしょうか。
THE BITTER END 公式サイト
トップページの真ん中あたりにブルーの"46years"のマークの下に、"Since 1961, many legends have launched their careers in front of The Bitter End's famous brick wall."とありますが、そこのリンク部分、"legend"をクリックするとここで演奏したアーティストたちの一覧が見られます。いつも分かりにくくてすみません
・・・いや〜、これぞニューヨーク。ピーター・アレンはもちろんのこと、ビリー・ジョエル、チック・コリアにメリサ・マンチェスターにパティ・スミス、ウッディ・アレンの名前までありますね
。ピーターと曲作りを共にしたピッチフォード氏によると、「ニューヨーカーが少し自惚れて自分に浸りたいときには、自分のストーリーを語りながらピーター・アレンと一緒にピアノの傍らに身をおきたがったんだ」そうな。そういえばフォッシーも愛娘とチャーミングな恋人が自分のために踊る幸せなシーンでピーターの曲を使っていました。
そんな心地よさでは類を見ないピーターの曲と同様、彼はとても人当たりのいい人だったとピッチフォード氏は回想しています。でもその一方で、自分をさらけ出すこともなく、プライバシーにふれる話題ははぐらかすようなところがあったとも。猛威を振るうエイズで知人が次々と亡くなったときにも、彼は多くを語らなかったそうです。そして72年に交際を始めたパートナー、グレッグの死の3日後にも彼はいつもどおりステージを務めました。
ピーターの姉妹も母マリオンも、生前の彼は有名になってもちっとも変わらず、しょっちゅう電話をかけてきたり、暇があればオーストラリアに帰ってきた、と話していることを思うと、彼の心はどんな時でもオーストラリアにあったのかもしれませんね。