2008年10月の記事 | platea/プラテア

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青山航士さんと出演作について。『The Musical AIDA〜アイーダ〜』/ ゲキXシネ『五右衛門ロック』出演
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Continental Americanをアンコール/ボーイフロムオズ
 夜行バスでもいいからとにかく乗って東京も見に行くんだった・・・と後悔する毎日はつらいです〜。いまさらながら青山航士さんのダンスは特別だなと思い知りました。
 『ボーイフロムオズ』のタイトルが、ジュディ・ガーランドの代表作『オズの魔法使い』に掛けていることはいまさら書くまでもないことでしょうか。劇中でもドロシーの赤いラメの施された靴を思わせる真っ赤なドレスを着たジュディ、ピーター、クリスそして彼女の夫の4人が腕を組んでニューヨークに向かって歩いていくシーンは、ドロシーとブリキマンと案山子とライオンの4人(?)で旅をしていくシーンに重なって、面白かったですよね。
 でもダンスオタクで青山さんファンにとって、この作品で思い出すのはなんといってもボブ・フォッシー作品。「歴史は繰り返される」はフォッシーの監督した映画『オール・ザット・ジャズ』の劇中歌ですし、「音楽を聴くのが大好き」は同じくフォッシーによる"Liza with a 'Z'"の収録シーンという演出です。そして"Continental American"も、『オール・ザット・ジャズ』およびブロードウェイ作品『Fosse』に収録されている"Take Off With Us -Three Pas de Deux"が目の前の舞台とシンクロして最高でした。
 男女・男性二人・女性二人がそれぞれペアを組んで踊り始めるこの作品は、さまざまな形の愛の営みが、鍛え上げた体躯による究極の造形美の連続で描き出されるのです。むろん場面設定は違いますが、青山さんは後藤宏行さんとのペアで、男性二人ならではのダイナミックで線の強いダンスが素晴らしかったです。普通の日本のステージでは受け入れられにくい性質の踊りだと思いますが、そんなことを忘れさせてくれるくらいに洗練された仕上がりで、なにより綺麗でした。どんな偏見も先入観も「美」にはひれふすしかない、という舞台芸術の底力を感じる一曲だと思いますし、ピーターが溺れるのも無理はない・・・とドラマとしての説得力も高かったですよね。ああこの曲だけでももう一回見たいな〜悲しい
23:54 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
音楽を聴くのが大好き/ボーイフロムオズ
 『ボーイフロムオズ』大千穐楽、客席が出来上がった状態からのスタートなので、もう全編アンコールのようでした嬉しい。恒例の「ピーターと腰を振ろう」では、なんとピアノと指揮を担当された上柴はじめさんが! 上柴さんについては以前少しだけ書きました(記事はこちら)が、ピーター・アレンと言えばピアノですから、このコーナーの大トリ(?)が上柴さんというのは納得です。普通のミュージカルの指揮者だとボックスから挨拶されますが、OZの舞台だとお顔が見えにくいですからね〜。シドニー・モーニング・ヘラルドに「東京版の"I Still Call Australia Home"の仕上がりがすばらしい」と書かせた方を拝見することができて嬉しかったです〜。
 さてもう閉幕したので少し書いてもいいかな、と勝手に判断して今回のパンフレットでの青山航士さんのコメントをご紹介します。リトル&ヤング・ピーターとアンサンブルメンバー紹介ページに、人生でこれがなくては生きていけないというものは?という質問があるんですが、青山さんの答えは「音楽」で、「かけがえのない宝」とも答えておられます。
 ご両親が音楽関係のお仕事をされていて、常に音楽のある生活をしてこられたとのこと、これもすごく納得がいきました。以前書いたことですが、優れたダンサーは音楽的な環境で育った人が少なくなく、また一流の振付家は並外れた音楽通であることが多いようです。そして身体能力の高さだけでなく、曲想によってまるで別人のようなダンスを見せてくれる青山さんの動きには、無限に広がる「音色」のようなもの(「動色」じゃ変だし・・・)があるんですよね。
 初演パンフレットでは、ライザと踊る『音楽を聴くのが大好き』がお気に入りだと答えておられましたが、青山さんの内の音楽が機能性の高い身体によって表現されるとき、耳だけでなく目からも音楽が感じられて私は「音楽を見るのが大好き」な気がしてきます。音楽を内側に持っている青山さんだからこそ、一度無音のダンスも踊ってみてほしい・・・と思ってる私の耳ってやっぱり節穴かな〜。この作品でいい音楽をいっぱい聴いて耳がメタボになってるのかもしれません聞き耳を立てる
00:45 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
Love Crazy!/ボーイフロムオズ
 いつものことですが、観劇直後はまともなことが書けません。再演が見られなかった私にとっては約3年半ぶりの『ボーイフロムオズ』、ものすごくパワーアップしていましたパンチ。青山航士さんの舞台を見るたびに書いているので「またか」と言われそうだけど、どんなに覚悟して見に行っても青山さんの動きのあまりの速さに驚いてしまいます。 曲ごとに書けばキリがないけど、やっぱり"Love Crazy"は最高ですよね。『五右衛門ロック』でもそうでしたが、オープニング直後のハイテンションなナンバーで、「こ、こんなに速かったっけ〜?!冷や汗工具」とオロオロするのがファン冥利に尽きると言うか、一種の快感に変わってきました。
某プロ野球選手が40才を超えているのに成長ホルモンを分泌しているという検査結果が出た、という記事を読んだことがありますが、青山さんもそうなんじゃないでしょうか〜。以前ご自身のブログでも陸上部現役時代より速く走れそうな気がする、と書いておられましたが、ダンスのポテンシャルも私が見ている6年超のあいだ、ずっと上がり続けているように思います。欧米のダンサーならとっくに重さが出てくる頃なんですが、この先がますます楽しみですね〜るんるん
 ああ〜、でもこんな速い動きだと頭の中の記憶もブレブレのピンボケで、今回イラスト描けるんだろうか。明日の千秋楽も「ヒャー!!カッコイイ〜〜」だけで帰ってきそうな気が・・・。
00:36 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
サーファーズ・パラダイス/ボーイフロムオズ
1988年、ミュージカル"Legs Diamond"がクローズされた後、ピーターは再びライブステージに戻り、全米ツアーを開始します。ミュージカルの失敗を払拭するような盛況ぶりで、とくにデトロイトとシカゴでは大規模なコンサートが開かれたようですね。そして90年には、凱旋公演とでも言うべきカーネギーホールでのコンサートを成功させ、相変わらずのエンターティナーぶりを観客に見せてくれたそうです。が、92年になると、ピーターがエイズに起因するカポシ肉腫に侵されていることは、見た目にもわかったといいます。
 どれほど体力を消耗し、どれほどの精神力で自分を支えたのかは想像もつきませんが、彼はその92年には人生最後のオーストラリア公演を行います。そして、パフォーマーとしての第一歩を踏み出したオーストラリア東海岸の街、サーファーズ・パラダイスで予定を延長してバカンスを過ごした彼は、母と姉妹を残して、放射線治療のためにアメリカへ戻りました。そのとき彼に付き添ったのが、別れて20年になろうという元妻のライザ・ミネリだったそうです。
 その35年ほど前、青い海と白い砂浜が広がるリゾート、サーファーズ・パラダイスのイベントで、大きなクリケット・シューズをはいてステージに上がったピーター。父親がこの世を去った町Armidaleから転居したばかりの、まだ中学生でした。彼はその頃から本名の「ウールノー」を捨ててピーター・「アレン」と名乗り始めたのです。
 もしもクリス・ベルに会わなかったら、もしもジュディ・ガーランドに出会わなかったら、もしも・・・と言い出すとキリがありませんね。でも、誰に教えられることもなく一人でピアノを弾きこなした7才の男の子と、その彼を愛し育てた母親が存在したという事実は、どんな「もしも」にも打ち消されることなく、彼の内から湧き出る音楽をこの世に鳴り響かせたに違いありません。
 「ピーター・アレン」が生まれたこのサーファーズ・パラダイスが、ピーターが最後に滞在したオーストラリアの街になりました。死期を悟っていたであろう彼の想いに、ライザ・ミネリが寄り添っていたことが、一観客にとっては大きな慰めに感じられます。
00:13 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
ニューヨークとLegs Diamond/ボーイフロムオズ
 ピーター・アレンが手がけた88年のブロードウェイ・ミュージカル"Legs Diamond"は300万ドルの損失を出して早々とクローズされました。ピーターはNew York Native誌のインタビューで「今までの経験のうちで一番ハードだったこと」としてこの"Legs Diamond"を語りました。作品のリハーサル中、この作品の脚本家はエイズを患い、変更の必要に応じられる状態ではなくなっていたそうです。体力的に無理という判断で、別の脚本家をプロデューサーたちが連れてはきたものの、毎日のように変更があるうえ、他の重要なスタッフもこの世を去ってしまったといいます。
 興行的な失敗もさることながら、84年にパートナーのグレッグをエイズで失ったピーターにとって、この時期のニューヨークの状況は、精神的にかなりつらいものだったと思います。多くのアーティストがエイズのために亡くなり、89年12月1日にはニューヨークから発信されたメッセージに応じて600以上もの全米の美術館・画廊が、彼らの死を悼んで休業もしくは弔意を示す展示をしたそうです。『ウエストサイドストーリー』を作曲したバーンスタインもこの日、ニューヨークの現代美術館で「エイズで亡くなった私の愛する人々へ」とピアノと2声のための小品を捧げています。
 このイベントは当時の政府に対して研究また福祉の面での早急な対策を取ることを促す目的で行われましたが、未知の部分の多いこの病を断つ術はなかなか見つからず、その後も多くの人の命を蝕み続けています。そしてこのイベントの際、カリフォルニアで芸術大学のアートセンターに壁画を完成させたキース・ヘリングは翌90年エイズでこの世を去りました。また91年にはクイーンのフレディ・マーキュリーが、そしてピーターの亡くなった92年にはジョルジュ・ドンも亡くなっています。
 世界中の人たちが憧れる、ニューヨークという大都会を彩るアーティストたちが早すぎる死を次々に迎えている頃、ピーターは長年の夢であったミュージカルに挑戦したことになります。夢は破れたのかもしれませんが、彼はニューヨーカーに愛される「ボーイフロムオズ」として、悲しみが横切っていたあの街をどうしても自分の手で明るく照らしたかったのだと思います。
00:17 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
マーシー・ホスピタルからの電話/ボーイフロムオズ
 以前、ピーター・アレンが息を引き取ったマーシー・ホスピタルについて書きましたが、ピーターは亡くなった日にも、姉妹のリン・スミスに電話をかけてきたそうです。彼女に電話インタビューをしたニューヨークタイムズ2003年10月5日の記事です。興味のある方は検索してみてください。
 エネルギッシュなステージを創り上げる根っからのエンターティナーである彼は、オーストラリアの母親にも姉妹にもエイズに感染したことを告げなかったそうです。彼女たちとはずっとコンタクトを取り続けていたのですが、「彼は一家の父親のようだった」とも語っていることを思うと、心配させまいとしたのかもしれません。92年当時はエイズ研究がまだ治療の成果につながっておらず、感染経路についても誤った情報が錯綜していたので、エイズをめぐる不安の大きさは、今からは想像もつかないほどだったと思います。
 家族の皆を愛している、と告げるために電話をしてきたと回想する彼女に、そのときの会話で何かほかの事を覚えていますか、と質問したところ、彼女は少し声を震わせて「絶望」と答えたそうです。
 ピーター・アレンというエンターティナーに対して、あまり使われたことがないであろうこの言葉を改めるため、(ライター氏いわく『ボーイフロムオズ』の内容に矛盾しないように)リン・スミスは数日後電話をかけてきた、と記事は続きます。そして話したのは、次のような内容だったそうです。「彼は混乱と拒絶の塊のようになっていたわけではありません。彼は人生を愛した幸せな人でした。そう付け加えていただけますか。賑やかでおもしろくって、いつも陽気だったんです。複雑で、否定的な人間ではありませんでした。」
 『ボーイフロムオズ』BW版の劇評で、ドラマとしての深度がたりない、ということに言及するものをいくつか見たことがあります。確かに「病」や「死」を語りつくすような台詞や場面はなく、父親の自殺もある夜の悪夢のような演出です。とくにアメリカのメディアがピーター・アレンという人を語るとき、こうした言葉は居心地が悪そうに浮遊するような感じがあります。ひたすらパワフルで華やかなショーマンであることが期待され、また本人もそう望んでいたとは思いますが、死が近づけば誰だって絶望するのに、と思ってしまいますね。そんなことも記事になるほど、ピーターの残した音楽や映像は生命力にあふれて心地よいということでしょうか。
 人生最後の日にも、家族のみんなを愛している、と告げるためにオーストラリアへ電話をかけたピーターは、観客にはどんな自分を記憶してもらいたかったでしょう。やはりそれは、決して幸福とはいえない少年時代に母親マリオンに与えられ、のちに彼をブロードウェイを彩るスターに導いたピアノを弾いて、のびやかに歌う姿ではないかと思います。それは一人の人間としての彼の居場所を狭めたかもしれませんが、癒しようのない彼の傷も押さえ込んだような気がします。そして家族からも遠く離れ、ウールノーという名前を捨てたまま異国の地で息を引き取った彼が、一人の人間として最後に口にした「絶望」を受け止め包みこむことができるのは、彼の残した歌へささげる、観客一人一人の心からの拍手なのかもしれません。
23:58 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
Bi-Coastal/ボーイフロムオズ
 東京公演が千秋楽を迎えた『ボーイフロムオズ』、ついに西日本のファン待望の大阪公演です拍手。青山航士さんは北海道から沖縄まで、のNHK教育『うたっておどろんぱ!』(うわぁぁぁ懐かしい〜)に出演しておられたので、期間は短くても東京以外で公演があると全国にちらばるファンは嬉しいですよね。
 さてアメリカもなにかと東海岸と西海岸に分かれています。そしてその間を、大陸を横切って絶え間なく往復する人たちがいて、bicoastalと呼ばれているそうですが、大企業勤めや専門職の、仕事に生きるタイプの人が多いので、少し特権階級的な自負(本人側)と軽蔑(傍観側)のこもっている言葉なのだとか。
 ソロになってNYの小さなクラブで活動を続けていたピーターは、74年にオリビア・ニュートンジョンの大ヒット"I Honestly Love You"を作曲、人気ソングライターとしてミュージックシーンに躍り出て、そんな一人になりました。その言葉にひっかけた"Bi-Coastal"、曲自体もウィットに富んでいて『オズ』での演出も楽しいですよね。この頃にピーターはマンハッタンの自宅以外にカリフォルニア州サンディエゴ近郊のLeucadiaという海辺の街に家を買ったそうです。
 でもそこは生まれついてのショーマンでオーストラリアのちびエンターティナーだった彼、「隠されたパラダイス」と呼ばれている瀟洒なリゾート地でNYの喧騒を離れた暮らしに浸りこむことはなく、NYのメジャーなホールでステージ活動を再開します。例の「ラクダに乗ったエンターティナー」は目の肥えたNYの観客にピーターが放った力技だったようですね〜。82年のNYタイムズでも「(ラジオシティ)ミュージックホールの名物」とお墨付きが・・・。日本版『オズ』で(特に)話題のロケッツは、NYでは女性ダンサーだったそうですが、そのかわり(?)ピーター自身がCarmen Mirandaという電飾ぬきの小林幸子さんとでもいいますか、頭に載せた果物かごバナナと派手な衣装がトレードマークだった女性歌手を真似て女装したそうです。曲は最高だし、歌もあんなにうまいんだからそこまでしなくても・・・と思うくらいのサービス精神ですわ〜。改めてピーター・アレンという人はいろいろな意味で複層的な人だったんだなあと思います。06年オーストラリア版のアンサンブルの衣装が凄く派手だったのは、そこからヒントを得ているのかもしれませんね。
 『ニューヨークシティ・セレナーデ』の邦題で知られる映画の主題歌"Arthur's Theme"が発表されたのはピーターのステージ活動がノリに乗っていた81年。ピーターが書いたのはあの有名な"When you get caught between the moon and New York City"だけだそうですが、このフレーズの夜空に星をちりばめるような魅力なしにはオスカー受賞はなかったでしょう。ジュディ・ガーランドってさすが先見の明があります。ハリウッドも制して、なんだか何人かの人生を見ているみたい。
00:09 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
Once Before I Go/ボーイフロムオズ
 再々演ということで、ライザ・ミネリのコメント探しも3度目になりました。そして今回とうとう「ライザ・ミネリに(『ボーイフロムオズ』についてのインタビューを)拒否された」と書いている記事に遭遇しました悲しい。誰だって自分自身、母親、そして元夫を他人が演じたら無関心ではいられないと思いますが、生まれついてのスターとして常に人の視線を浴びてきた彼女にも、そっとしまっておきたい記憶があるのは当然でしょうね。 
 またライザの沈黙の一方で、舞台と事実の違いがいくつか、登場人物の家族の話からわかりました。劇中では若いライザとピーターが母の忠告を無視して恋に走る演出でしたが、ライザの妹ローナ・ラフトによるとジュディはむしろ仲人的に二人を引き合わせたのだそうです。またピーターとグレッグの関係はもっと開放的で、ピーターの姉妹のリン・スミスはピーターの別のボーイフレンドと一緒に、グレッグが照明を担当しているピーターのステージを見に行ったと語っています。劇中のようないわゆる「純愛」で結ばれた二人、というより仕事上の最良のパートナーという感じだったんでしょうか。それもニューヨークという街でなら、もっとも貴重な関係だったといえるかもしれません。
 彼らの絆を残しているのがこの"Once Before I Go"で、前の記事でも触れたピッチフォード氏によると、グレッグの死後、彼をパフォーマンスの間中忘れないよう、彼に捧げる歌詞に書き直してくれとピーターが頼んできたそうです。そして"you"を自分に降り注ぐライトにたとえた歌詞が書き加えられ、今ステージで歌われているものになりました。グレッグが亡くなってから、ピーターはいつもスポットライトにじっと見入り、その向こうにグレッグがいるのだと想像していたと語っています。
 それも結局は、本人以外の人間の、推量や想像の入り混じったものでしかないかもしれません。ただ、生れ落ちた日からずっと世界中の視線の的となり、スポットライトを浴び、マイクを向けられてきたライザ・ミネリの沈黙に、日本の『ボーイフロムオズ』を創り上げている人たち、そして観客のこの作品への愛情が少しでも届かないだろうかと思わずにいられません。
00:33 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
The Bitter End/ボーイフロムオズ
 どうもダンスオタクの悲しさで『オズ』というと「青山航士さんがフォッシー調で踊るパンチ」ことに舞い上がってしまいます。ああもう一曲、"Gotcha"みたいなナンバーがあればな〜、と思いますが、それだと当時のピーターがますます寂しそうに見えてしまうでしょうか。
 ライザとのコラボをはじめとしてフォッシーが振付だけでなく演出・監督業でもあふれるような才能を発揮していた70年代、ピーター・アレンは妻ライザそしてクリス・ベルとも離れて、シンガーとしてソロ活動にはいります。彼がそのころ出演していたクラブBITTER ENDは今もグリニッチ・ビレッジでニューヨーカーの耳を楽しませているようですね。1961-2007とあるので去年閉店したのかと一瞬思いましたが、2008年のカレンダーどおりのスケジュール表がありました。おおらかですね〜、これが長寿の秘訣でしょうか。
THE BITTER END 公式サイト
 トップページの真ん中あたりにブルーの"46years"のマークの下に、"Since 1961, many legends have launched their careers in front of The Bitter End's famous brick wall."とありますが、そこのリンク部分、"legend"をクリックするとここで演奏したアーティストたちの一覧が見られます。いつも分かりにくくてすみません汗
 ・・・いや〜、これぞニューヨーク。ピーター・アレンはもちろんのこと、ビリー・ジョエル、チック・コリアにメリサ・マンチェスターにパティ・スミス、ウッディ・アレンの名前までありますねグッド。ピーターと曲作りを共にしたピッチフォード氏によると、「ニューヨーカーが少し自惚れて自分に浸りたいときには、自分のストーリーを語りながらピーター・アレンと一緒にピアノの傍らに身をおきたがったんだ」そうな。そういえばフォッシーも愛娘とチャーミングな恋人が自分のために踊る幸せなシーンでピーターの曲を使っていました。
 そんな心地よさでは類を見ないピーターの曲と同様、彼はとても人当たりのいい人だったとピッチフォード氏は回想しています。でもその一方で、自分をさらけ出すこともなく、プライバシーにふれる話題ははぐらかすようなところがあったとも。猛威を振るうエイズで知人が次々と亡くなったときにも、彼は多くを語らなかったそうです。そして72年に交際を始めたパートナー、グレッグの死の3日後にも彼はいつもどおりステージを務めました。
 ピーターの姉妹も母マリオンも、生前の彼は有名になってもちっとも変わらず、しょっちゅう電話をかけてきたり、暇があればオーストラリアに帰ってきた、と話していることを思うと、彼の心はどんな時でもオーストラリアにあったのかもしれませんね。
00:10 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
Everything Old Is New Again/ボーイフロムオズ
 うう〜〜ん、何を書いてもネタばれになりそう、それにこの曲は特に・・・というわけで汗今日もボーイフロムオズな町めぐりにします。町といってもニューヨークで、オーストラリアで人口4万とか2万とかいう小さな町を見てきたのに、ニューヨークは現在人口814万人。その大都会をアメリカ有数のセレブリティ、ジュディ・ガーランドの紹介で歩くようなものですから、ピーターの環境の激変ぶりは相当だったでしょうね。
 ピーターが訪れた64年のブロードウェイでは『屋根の上のバイオリン弾き』が初演。『ウエストサイドストーリー』のジェローム・ロビンズ演出・振付の作品です。一方『ボーイフロムオズ』劇中にも描かれている、ライザ・ミネリの真っ赤な衣装が印象的な特別テレビ番組"Liza with a 'Z'"('72)でエミー賞を獲得するボブ・フォッシーは61年の"The Conquering Hero"が早々にクローズし、華やかな彼の経歴の中では地味な時期だったかもしれません。以前にも少し書きましたが、この作品はアメリカと日本のマダガスカルでの戦闘を背景とした反戦的なものだったそうです。戦争を、ひいてはアメリカを批判するような演目は批評で派手にたたかれる時代でした。ニューヨークをあでやかに彩ったKing of Showbizにもそんな時があったんですね。
 ピーター・アレンはこのボブ・フォッシーの一生をフォッシー自身が映画化した"All That Jazz"('79)に劇中歌として'Everything Old Is New Again"を提供しました。アメリカに移住して15年目、ピーターも押しも押されぬ大物シンガーになっています。フォッシーによる映画『キャバレー』と"Liza with a 'Z'"でライザが大スターになり、夫婦としての彼らは軌道修正がきかなくなった面があると思いますが、そのことでフォッシーとの間に確執はなかったようです。ライザはスターになるために生まれた女性だということがピーターにはよく分かっていたんでしょうね。以前『ボーイフロムオズ』演出のマッキンリー氏が話していた「人が自分自身になる物語」という言葉が思い出されます。
 フォッシーの私生活の荒廃ぶりをリアルに伝える映画"All That Jazz"の中で、恋人(アン・ラインキング)と娘が帽子をかぶってニューヨークのアパートでフォッシーに踊って見せる、一番心安らぐシーン。そこに流れている、ダンスと同じくらいのびのびと楽しそうな歌がピーターの'Everything Old Is New Again'です。歌の最後に、ニ「ュー・アゲイン」の韻をふんで"I might fall in love you again"とこれ以上ないくらい優しい声が流れますが、確かにピーター・アレンって別れた後で性懲りもなくこんなことを言っても憎めない感じがありますよね。ライザとも生涯友情で結ばれていたようですが、なるほど・・・です。
23:30 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |