2008年09月の記事 | platea/プラテア

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青山航士さんと出演作について。『The Musical AIDA〜アイーダ〜』/ ゲキXシネ『五右衛門ロック』出演
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The Peter Allen Motor Inn/ボーイフロムオズ
 う〜〜ん、気になってあちこちネットを覗いていますが、どうしてこのモーター・インがピーター・アレンの名前を掲げているのかはわかりません〜。でもホテル評価のサイトではテンターフィールドのホテル2件中1位嬉しいで、清潔で快適なところのようですね。写真が掲載されているサイトがありました。
The Peter Allen Motor Inn
 テンターフィールドの町は比較的温暖で四季があり、今頃は紅葉の美しい町なのだそうですが、自然だけでなく19世紀半ばの歴史的建造物が残されている情緒あるところのようです。また、今から約120年前の1889年10月、ヘンリー・パークス卿がテンターフィールド芸術学校で、入植者たちが開拓したそれぞれの町をひとつの政府に、と語りかけた演説が有名で、「私たちの国の生まれたところ」と紹介されていました。このパークス卿の演説をきっかけとして、1901年1月、イギリスの支配を脱し、オーストラリア連邦政府が誕生したのだそうです。
 『ボーイフロムオズ』って私なんかは「ブロードウェイミュージカル」という印象が強く、それほどオーストラリアを強く意識していなかったのですが(想像力足りないかな〜)こうして町めぐりをしてみるとオーストラリアへの深い想いがこめられた作品なんだなあ、としみじみ思いました。若くしてオーストラリアを去ったピーター・アレンが、死期を悟っていたであろう92年1月、死のわずか5ヶ月前まで母国で公演をしたことが切なく思い出されます。
00:49 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
Waltzin' MatildaとTentefield Saddler
 『ALL SHOOK UP』で坂本昌行さんの"If I Can Dream"(最高でしたね〜)を聞いて、ますます聞きたくなった"Tenterfiled Saddler"。この曲はBW版CDにボーナストラックとして収録されていますが、「アメリカ人にはわかりにくい」とかでプレビューでしか演奏されなかった曲です。日本の観客とアメリカの観客の感性が同じとは思えない、どうしても一度歌ってほしい、と思いつつ、日本版初演のパンフレットを見ていると、もうひとつ気になっていた曲のことを思い出しました。"Waltzin' Matilda"、しかも「中国語バージョン」ラーメン。BW版CDには収録されていないこの曲、一体どういう曲なんだろう、という疑問を抱きつつ、根が浅い人間なので今日までケロッと忘れていました。
 ですが、今日の「BFOなオーストラリア町めぐり」でTenterfieldに関するサイトをあちこち覗いてみて、再々演ならではの新発見(大げさ〜)! なんと"Waltzin' Matilda"は、19世紀末にテンターフィールドで結婚し、移り住んだ詩人アンドリュー・バートン(バンジョー)・パターソンによって広く知られるようになった伝承歌で、オーストラリアの非公式国歌とも呼ばれているとか。日照りと洪水、蠅、猛暑などオーストラリアの厳しくも美しい自然に宿るスピリット、そしてその下で懸命に働いた開拓民にまつわる民間の詩や歌をバンジョー・パターソンが書き記し、採譜したその中の一曲が"Waltzin' Matilda"なのです。(昨夜アップしたとき、ボケて曲名を"Tenterfield Saddler"と書いていました冷や汗。申し訳ありません)
 
 いろいろなページがありましたが、19世紀末以降の優れたテンターフィールドの馬具職人たちにちなんで衣類その他を製造しているブランド"Tenterfield Saddler"のサイトの"Saddler's Tales"に上記の話がまとめられていたのでご紹介します。また、トップページ左側の一番下にある"Visit Tenterfield"をクリックするとテンターフィールドの情報がいっぱいのページにたどり着きます。"National Parks"の写真はすごいですよね。そしてなんと、"Where to stay"をクリックすると"Peter Allen Motor Inn"の文字が! 残念ながらリンクされてないんですが、好奇心わきます〜豚
 06年のオーストラリア公演で"Tenterfield Saddler"は復活し、そのことをたずねられた主演のヒュー・ジャックマンは「(唄わないと)僕たちリンチされてしまうよ」と答えていました。この曲をはずすという決断の一方で、"Waltzin' Matilda"はスタッフにとってオーストラリアの心を滑り込ませるようなことだったかもしれません。若いアレン・ブラザーズが遠い東洋の国でファンを開拓するべく唄う"Waltzin' Matilda"、たしかに原曲の基本精神はちゃんと受け継いでいますよね。 
00:15 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
Armidale/ボーイフロムオズ
 オーストラリアといえばコアラとカンガルーな私、『ボーイフロムオズ』再々演をきっかけに少しいろいろな町を覗いてみたくなりました。
 ピーターがプロとしての第一歩を踏み出したLismore時代をさかのぼって、生まれてまもなく移り住んだArmidaleの現在の人口は25000人(Lismoreは44000人)。シドニーから北へ567km、たくさんの国立公園に隣接し滝の名所もある、オーストラリアの豊かな大自然に囲まれた町というか地域のようです。トップページの左側インデックス下から2番目の"What to do"をクリック、開いたページの"National Parks"をご覧ください。
 のちにピーター・アレンは活動の中心地だったニューヨーク以外にカリフォルニアのサンディエゴにも居を構え終の棲家としましたが、サンディエゴも大きすぎず、温暖で自然の豊かな街なので、どこか似ているかもしれません。ほかに町のお祭りのパレードの様子も見られますが、『ボーイフロムオズ』の劇中でちびピーターが唄って踊っていたのはこの町なんですね〜、こんなパレードにも参加していそうですよね。
 ピーターのお父さんについては以前にもgooで書きましたが(記事はこちら)、こんなにも豊かな自然に囲まれた静かな町でアルコールにおぼれずにはいられなかった彼の心はどんなに傷ついていたのでしょうか。今でこそ戦争帰還兵の社会不適合はPTSDとして治療が必要であるという認識がありますが、当時はそうした考え方はなく、単なる落伍者として中傷されることも少なくなかったそうです。
 この町の思い出はピーター一家にとって、とても言葉にして言いつくせないものだと思いますが、彼が"I Still Call Australia Home"を作ったとき、頭に浮かんだのはやはりこの小さな町だったでしょう。日本公演でも、この曲が歌い上げられるときには、誰もが心の帰る場所を思い出すような、懐かしくあたたかなものが劇場いっぱいに拡がりましたよね。
00:24 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
Lismoreの町/ボーイフロムオズ
 母マリオンとともに東オーストラリアの小さな町Lismoreに転居したピーターは、リトル・リチャードやジェリー・リー・ルイスらのピアノ弾き語りロックン・ロールにはまったそうです。根っからのパフォーマーで、海岸沿いの街まで出かけて、出演できる場があれば必ずパフォーマンスを披露していたようです。
 中学生になった彼は、オーストラリア東海岸のリゾート「サーファーズ・パラダイス」のオーディションに合格、レギュラー出演することになりました。特大クリケット・シューズをはいてステージに上がり、リトル・リチャードのナンバーを物まねを交えて演奏したそうです。当時からエンターティナーとしても才能を発揮していたんですね。なんでクリケットシューズ?とも思いますが、イギリスの国技であると同時に、Lismoreのサイトの"Entertainment"を見ると広大なクリケット場が・・・。また"Photo Gallery"の"Buildings in Lismore"を見ると、コロニアル風の旧い建物が残り、今も入植時代の雰囲気を感じさせる町のようです。マリオンとピーターも写真が掲載されている教会に通ったのでしょうか。
 さて、靴だけでも目立つのにピーターはそれでアップライトピアノに駆け上がるわ、ショーの終わりには必ず観客の中に飛び降りるわ、と若さの限りをつくしてステージを務めたそうです。そしてこのイベントの間、クリス・ベルと出会い、アレン・ブラザーズが結成されました。『ボーイフロムオズ』劇中の"Love crazy"の場面さながらに彼らのパフォーマンスは若さにあふれ、底抜けに明るかったそうです。ArmidaleからやってきたピーターのLismoreでの新しい生活が、海の向こうへと開かれていくのが見えるようです。
23:57 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
五右衛門ロックがゲキXシネ化!!
 さっきまで嬉々としてあれこれダラダラ書いていたんですが、送信の段になってフリーズ。なんとかPCは立ち直りましたが、最近早起き続きの私は今日のところは再起不能です〜。なので劇団新感線公式サイトで発表されていた一番嬉しいニュースだけ書いていい夢見ることにします。2009年春の公開予定ということは・・・『スーザンを探して』と『ミー&マイガール』の谷間を埋めてくれるんですね魚。新感線ってホント素晴らしいわ〜〜拍手拍手拍手ビールおでんビール。なるべくたくさんの街で上演されてほしいですよね。
01:08 | 五右衛門ロック | comments(0) | trackbacks(0)| - |
母マリオン/ボーイフロムオズ
 ピーター・アレンは1944年Tenterfield生まれ、いわゆる'war baby'です。David SmithとNeal Peterによるピーターの伝記によると、父親も叔父たちも戦争に行ってしまったので、Armidaleというシドニーの北約350マイルの街に転居して、母親と祖母と叔母たちに囲まれて幼い日々を過ごしています。
 5才から学校で休日に開かれる音楽やバラエティのショーに出演し、週末は地元のハリウッド・ミュージカル(ミュージカル映画のことでしょうか)をまねた芝居小屋に入りびたっていたそうです。タレント・コンテストでちょくちょく優勝していたピーター少年はいつしか地元の劇場の日曜昼公演にやとわれることに・・・。前回書いたフォッシーもそうでしたが、とにかく早熟で、回りの大人に見る目があったということでしょうね。今の日本の大人はそんな余裕もないような感じがしますが、アメリカといいオーストラリアといい、新しい国ってやっぱり違うのでしょうか。
 話が前後してしまいますが、そんなピーターの才能をいち早く見出したのは、やはり母親のマリオンでした。マリオン役の今陽子さんが歌い上げる"Don't Cry Out Loud"、よかったですよね〜。マリオンの回想によるとピーターが7才のとき、彼を連れて友人宅を訪れると、そこに一台のピアノがあったそうです。その周りをウロウロしているピーターのことをさして気に留めずおしゃべりしていたら、30分ほどの後、当時の流行歌"Put Another Nickel in the Nickelodeon"が、聞こえてきました。弾いていたのはなんとピーター少年。習ったこともないのに、聞いただけの曲を両手で完全に弾いたといいます。その時マリオンは息子にピアノを買うことを決意し、ピアノとダンスのレッスンが始まりました。11才の時にはダンスの先生の横でピーターがピアノを弾き、地元のホテルやバーで演奏していたといいますから上達も速かったんですね。
 そんなピーターの才能の開花とは裏腹に、13才のとき祖母が死去、つづいて戦争帰還兵である父親が重度のアルコール中毒の末にピストル自殺と不幸が続き、マリオンとピーターはArmidaleの街を追放されるようにして、Lismoreという街に移ります。ピーターがレッスンを受けている間も、妻としてまたひとりの女性として、マリオンは辛い時期にあったのでしょうが、それでも息子の可能性を尊重し育む生き方を捨てることはありませんでした。幼いピーターを連れてレッスンに通う彼女には、明日を信じる健全な強さがあったことでしょう。ピーターが成長してからは新しいパートナーと人生の再スタートを切る彼女は、4人もの主要登場人物が亡くなる『ボーイフロムオズ』という作品のなかで、「生きる」ということを象徴しているように思えます。
23:29 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
沖縄とボブ・フォッシー
 私が好きなものを並べただけ、みたいなタイトルですが、今日は書いている本人がかなりビックリしています。『ボーイフロムオズ』の劇中、テレビ番組"Liza with a 'Z'"の収録場面でライザ&アンサンブルの"She Loves to Hear the Music"が歌われますよね。72年のこの特別番組を振付けたのが、トニー賞・アカデミー賞・エミー賞を獲得した三冠王、King of Showbizと呼ばれたボブ・フォッシーです。その彼はなんと45年、アメリカ海軍兵として太平洋一帯をまわり、沖縄にも来ていたそうです。
 1927年、シカゴでボードビリアンの子として生まれたフォッシーはわずか13才で友人とThe Riff Brothersと名乗りプロとして活動を開始しました。三年足らずのうちに週100ドル稼ぐようになり、振付も15才になるやならずでナイトスポットの羽を使ったショーを担当するという早熟さ。高校を卒業するとすぐ徴兵されますが、まもなく戦争は公的には終結し、彼はアメリカ軍のキャンプ地を回るentertainment unitsで二年間の兵役に服しています。そして、いつの発言かは分らないのですが、「沖縄でやってみるまでは、自分が何かをあんなふうにやり遂げる事が出来るとは思った事はなかった。その時から、自分が何を望み、どこに行きたいのかが分るようになった」と語っていたそうです。
 45年の沖縄を私なんかが言葉で語るのは不可能だとは思いますが、人間にとっての「生きる希望」というものがあんなにも脅かされたことはなかったというぐらいに、たくさんの尊い命が犠牲になりました。マグマのような炎を吐く火炎放射器で緑濃い美しい島が焼き払われていく記録映像を見るたびに胸が詰まります。戦勝国軍の兵士の余暇を演出する18才の新米兵士は、美しい海が涙を流して抱きかかえているような、焼け野原が拡がる当時の沖縄で、何を目にし、何を演じて見せたのでしょうか。
 フォッシーが戦争を語ったものを今まで目にした事はなく、上記の発言にもそれ以上の言葉は付されていません。(ただ61年の"The Conquering Hero"は、反戦的・反アメリカ的と当時のマスコミに評され、一週間足らずでクローズしました。)単に技術的なことが前後で話題になっていたのかもしれませんが、それだけの人間が、あの命のエネルギーが舞台に渦巻くような動きを生み出し、夢のような空間を創りあげられるでしょうか。いまも世界中の人々を魅了する20世紀を代表するアーティストが、18才の頃、一生の糧となるものを45年の沖縄で得たということが、私には一つの救いのように思えるのです。
01:01 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
アレン・ブラザーズ&ライザ・ミネリ/ボーイフロムオズ
 60年代初頭、ピーター・アレンはオーストラリアのテレビ「TCN9」のポップス音楽番組"BANDSTAND" で、クリス・ベルと共にアレン・ブラザーズとして一躍アイドルになりました。舞台では"Love Crazy"の収録場面がありましたよね(あの曲の青山航士さんのスクールメイツを1000倍ぐらい強烈にしたようなダンスが目に浮かぶ・・・)。その後、64年の香港ツアー中、ジュディ・ガーランドと出会い、67年にライザ・ミネリと結婚し、アメリカのミュージシャンとしてキャリアを積んでいくわけですが、彼はこの"BANDSTAND"に67年、新妻ライザ・ミネリとアレン・ブラザーズとして再登場しているのです。
 アメリカにいた時、ボーッとテレビを見ていて偶然ほんの一部を目にしたのですが、(当然録画なんて間に合いませんでした悲しい)さすが「アイドル」ピーターはスリムで脚が長く、一曲まるごと踊りっぱなしのダンスも凄く軽やかでした。今パッと頭に浮かぶ、貫禄あるアメリカのビッグシンガーとしての彼とは少し違った魅力です。まだ豹プリシャツも金パンもはいてなくて、確か三人ともタキシードを着て初々しかったな〜。もちろんライザもほっそりとして、紫吹淳さんみたいな体型。日本版の配役を初めて拝見したときは、二人ともホンモノよりかなり細い、と思ったのですが、新婚時代の二人は本当に坂本昌行さん&紫吹淳さんみたいな感じでした。
 ライザ・ミネリは先月25日にもニューヨークの"Cast Party"というイベントで、歌声を聞かせたそうです。満席の観客が、彼女の歌う間は「針の落ちるのが聞こえるほど」静まり返ったとか。いまなおスポットライトを浴びる彼女の中で、あの幸せそうな映像はどんな記憶として残っているのでしょうか。
00:28 | ボーイ・フロム・オズ | comments(0) | trackbacks(0)| - |
ピーター・アレンはヴェルサーチェの先駆
 関西空港の到着口を出ると、どこからともなくダシの匂いくもりが漂って、ああ帰ってきたな、と思いますが、さらにそこからラピートという電車に乗ったりすると、なんとシートが豹プリぴかぴかで、これでもかってぐらい大阪に帰ってきたことを思い知らされます。南海電鉄が笑いを取ろうとしているのか、真面目にそれをゴージャスと受け止めているのかは私にはわかりません豚。そうして免疫を高めて、アニマルプリント愛好者の多い難波に到着するころには旅情なんて吹っ飛んでいますが、他府県の方はあのシートをどう思われているのでしょうか。一度お聞きしたいものです。
 『ボーイフロムオズ』でもピーター・アレンの衣装は豹プリシャツなんですが、坂本昌行さんやヒュー・ジャックマンが着ると、どうしてこうお洒落なんでしょう。これはピーター・アレン本人が生前舞台衣装として愛用していたシャツに因んでいるそうで、彼はヴェルサーチェの先駆だった、なんて言っている雑誌記事を見つけました。こちらをご覧下さい。
 これは一度gooのほうでも紹介したページなんですが、とにかく長〜〜〜いページで記事を見るには、スクロールバーの下から5分の2ぐらいのところまでスクロールして下さい、としか言い様がありません。ラクダと白いタキシードのヒュー・ジャックマンの写真の次です。「ピーター・アレンは衣装選びに関してとても冒険的だった」と衣装デザイナーWilliam Ivey Longが語っていますが、豹プリに金パンにラクダ(は衣装じゃないか)・・・確かに凄いですよね〜。他にもブロードウェイの舞台やらトニー賞授賞式やらピーター・アレン本人やジュディ・ガーランドの写真やら、OZに関するものすべてテンコ盛りのページ、観劇前に必見です〜。は、でも・・・ということは、大阪の豹プリ愛好者もヴェルサーチェの先駆〜? 
23:55 | ボーイ・フロム・オズ | comments(2) | trackbacks(0)| - |
日刊スポーツのサイトで『スーザンを探して』の記事が
 『ボーイフロムオズ』についてそろそろ・・・とは思うものの、エフ・スピリット社長の曲直瀬道枝氏のブログ『花が好き、人が好き。』で紹介のあった、日刊スポーツの『スーザンを探して』の記事が気になり、探してみました。ひと昔前なら新聞社に電話して、代金分の切手を送って・・・との〜んびり通信販売してもらっていましたが、ネットってやっぱり便利♪9月9日現在、Web版の記事が見られます。リンクは許可制とのことで遠慮しまして、少し回り道ですが次の順で閲覧してください。
 日刊スポーツ公式サイトトップページの上部インデックス「芸能」をクリック→開いたページの「ニュース一覧」(今は真木よう子さんの写真右下)をクリック→「記事バックナンバー」の9月8日分のところに表示されています。
 演出・翻訳・訳詞のG2さんのコメントが短いんだけどなんかこうグッときますねパンチ。翻訳劇であることを意識しないようなタイトな舞台になりそうで楽しみです。
23:27 | スーザンを探して | comments(0) | trackbacks(0)| - |