2008年04月の記事 | platea/プラテア

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青山航士さんと出演作について。『The Musical AIDA〜アイーダ〜』/ ゲキXシネ『五右衛門ロック』出演
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ただ疲れて/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 まだまだ先だな〜と思っていたけれど、あと10日ほどで『ルドルフ RUDOLF The Last Kiss』開幕ですねムード
 青山航士さんの出演を知って「え? ハンガリーで初演?」と最初からクエスチョンマークを乱れ飛ばしながら原作やら周辺本を読み始めましたが、ホント島国の住人にとっては想像を絶するような政治背景の複雑さです。これをミュージカルの舞台に、というのは凄くたいへんな作業ですよね〜。 
 ルドルフが成人する頃、ハプスブルク家支配は600年におよぼうかというところでしたが、フランツ・ヨーゼフの在位中にイタリア領を失い(1859)、ドイツはプロイセンに押さえられ(66)、縮小の一途をたどりつつ「帝国」の体裁を保つには強力な反中央政府運動をおこなっているハンガリーの独立を半ば承認するしかなく、帝国は黄昏の時代を迎えていました。独立容認にはエリザベートのハンガリーびいきも大いに影響したといわれていますが、もともとは姑ゾフィーがハンガリーに対し厳しい態度を崩さなかったため、嫁のエリザベートが面当てとしてハンガリーに肩入れしたといいます。スケールの大きい嫁姑戦争ですね〜あせあせ
 その一方でチェコ民族との問題も山積していました。ボヘミアは工業地帯として大躍進しているのに農業国のハンガリーだけに自治が与えられるなんて!とこちらも不満が鬱積。おまけにプラハの街の中産階級と下層労働者の大半はチェコ人で、官僚らエリートはドイツ人、金融界を支配しているのはユダヤ人、という民族別格差社会が出来上がってしまっていました。そんななかターフェが首相に就任し、国家公務員はドイツ語とチェコ語の両方を話さなくてはならない、という言語令を出してチェコ語を話さないドイツ人達の怒りを買い・・・と帝国内は民族同士が全方向で衝突しているような毎日だったようです。日本版で乱闘シーンがあるようですが、当時の米領事がアメリカの奴隷制度論争以上に深刻、と報告しているくらいですからかなり激しかったでしょうね。
 こんな帝国を引き継ぐはずのルドルフは、ツェップスの主宰する「新ウィーン新聞」に匿名で記事を書き、問題の解決について語りつづけましたが、その主張がなにかの形になる前に彼はこの世を去りました。当時のオーストリアの状況は、適当に民族の名前を変えると今も世界のどこかで起きている紛争に当てはまるような気がします。
 顔色のすぐれないルドルフにエリザベートが病気ではないのか、と尋ねたとき、ルドルフは「ただ疲れて、神経がずたずたになっているだけです」と答えたそうです。憎しみの連鎖が、21世紀になっても絶えはしないことが、彼には見えていたのかもしれません。う〜〜ん、大したこと書いてないのにやっぱり長くなりました。読んでくださった方、すみません。 
00:57 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
おとぎ話の王子さま/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 いまジャン・デ・カールの『麗しの皇妃エリザベト』(三保元訳・中央公論社)を読んでいるんですが、ルドルフの人格について「母親に似て、矛盾する理念、高貴な理念、混乱した感情の集合体」と書かれています。う〜む少し辛口ですね。
 確かに、貴族制度を批判し、富の分配の必要性を説いてはいても、皇太子である彼は誰よりも「貴族的」に暮らし、国民が貧困に苦しんでいるときも贅を尽くした宮殿に住んでいるわけです。そのこと一つとってもルドルフの理想の高さと現実は相容れないとされても仕方がないかもしれません。でもとにかく彼は今も昔も人気がある。良い夫ではなかったようだし、結果としては政治的に何かを成し遂げたわけでもないのに何故?という気持ちが正直いって私にもありました。
 ・・・が、最近になって、ドイツ民族主義者を中核とするユダヤ民族やスラヴ民族に対する人種差別に対し、ルドルフが一貫して強く批判していた事が、当時の世界にとってどんなに貴重で大切なことであったか、しみじみ感じるようになりました。彼の死後、ヨーロッパは差別と憎悪と暴力の渦巻く大陸となり、人類の歴史でも桁外れの大量殺戮の時代に入ります。「共和国の大統領になる」ことを構想していた彼の夢が一歩でも前進していたら・・・19世紀末ウィーンを少しでも覗けば、誰もがそう思わずにはいられないでしょう。
 ルドルフの政治的展望とは無関係に、当時の年頃の女性たちにとって彼はまさに「おとぎ話に出てくる王子様」だったそうです。88年のプロイセン皇帝ウィルヘルムがオートスリアを訪問した際の写真を見ても、見事なビヤ樽体型のウィルヘルムに比べるとスリムで背が高く、髭に隠されていますが少年のような繊細な顔立ちで、写真を持ち歩く女の子が多かったというのも頷けます。現代がルドルフに見る「もしも大戦がおきていなかったら」という夢もまた、世界中の人が思い描く、一番幸せなおとぎ話なのかもしれません。
00:59 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
母からの手紙/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 1874年1月、フランツ・ヨーゼフとエリザベートの娘であるジゼルが女児を出産し、皇帝夫妻は44才の祖父と36才の祖母になりました・・・が、輝くように若く、ヨーロッパ随一の美女と呼ばれるエリザベートが「おばあさま」などというものにアイデンティティを見出すわけがありません。ミュンヘンまで孫に会いに行ったエリザベートが宮殿に残されたルドルフにあてた手紙には「子供はとても醜いけれど元気一杯です。そう、ジゼルそっくりそのままです」と書かれているそうです冷や汗
 ルドルフはこの時15才。多感な時期の彼はこの手紙をどう読んだんでしょう〜あせあせ。10代後半のルドルフは数ヶ国語を流暢に話し、歴史・経済に精通し、社会問題に関心も深く、申し分のない新時代のプリンスでした。もっとも、学者肌で深い思索にふける皇太子が「将来は共和国の大統領になる」と発言し、共和制への共感が強いことをフランツ・ヨーゼフは苦々しく思っていたようです。性格はルドルフ自身「私の精神はいつも何かの思いにとらわれている・・・」云々書いていて、エリザベート似だと思っていたようですね。
 この頃になるとエリザベートの放浪はかなり頻繁で、翌75年にはアナーキストの亡命者が多く危険だというフランツ・ヨーゼフの反対を押し切ってフランスに行ってしまいます。この時は無事でしたが、彼女はのちのお忍び旅行でアナーキストに殺害される運命にありました。一人息子のルドルフのことは父親に任せきり、殆ど接触のない生活だったそうです。無邪気で奔放で美しい母の旅先からの手紙を、心の奥底では相通じるものを感じながら、宮殿にとどまり皇帝となるべく勉学に励むルドルフ自身が保存していたのでしょうか。
00:56 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
あなたの子と呼ばれるには/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 『ルドルフ RUDOLF The Last Kiss』の時代設定となる「世紀末ウィーン」というと、ついクリムトをはじめとする華やかな芸術家たちの活躍を思い浮かべてしまいますが、政治の不安定さは相当のものだったようです。抜かりのないターフェ首相が牛耳ってはいても、1886年当時、オーストリアでのドイツ系民族とチェコ系民族の対立問題はアメリカの奴隷制度をめぐる論争を上回る、というアメリカ領事の報告が残されているそうです。
 それに加えて1857年から1923年の間に、ウィーンの総人口に対するユダヤ人の比率がなんと5倍になっています。キリスト教社会であるヨーロッパで何世紀も異教徒として差別されてきたユダヤ民族ですが、この時は民族伝統の職種である金融で成功をおさめる者が多く、ウィーンの街の富裕層として定着しました。・・・が、それを見て嫉妬し不満に思うドイツ民族主義あるいは反ユダヤ主義者が声を上げ・・・と帝国内は衝突の連続だったようです。
 ルドルフはそんな複雑な民族問題を抱えた国の皇位継承者として普通の子供には耐え切れないような教育を施されます。おばあちゃんにあたる皇太后が選んだ教育係はサディスティックな軍人、その後は母のエリザベートが自由主義者を中心に新しい教育を与えようと50人にのぼる家庭教師をつけたといいますから、たいへんな少年期ですね。現代ですら「跡取り」には特別な期待をかける親が少なくないのですから推して知るべし、ということでしょうか。
 こんな環境だから、とは言い切れませんが、少年ルドルフは利発ながらすでに精神的に疲労した所があったようです。10才のとき、祈祷書の一節に衝撃をうけ、「あなたの子と呼ばれるにはもう相応しくありません」と泣いて神の名を呼びつづけ、止まらなかったそうです。マイヤーリンク事件の直前にフランツ・ヨーゼフがルドルフに言ったという「私の後継者として相応しくない」という言葉は、ルドルフの心に何を沸きあがらせたでしょうか。
00:41 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
シャンデリアが落ちた/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 『オペラ座の怪人』のシーンさながらに1858年8月16日、シェーンブルン宮殿の儀式の間のシャンデリアが落下しました。宮殿中が騒然となりましたが、臨月の皇妃エリザベートには、不吉な予感を抱かせてはいけない、ということで秘密にされました。お腹の中にいたのはルドルフ。当時は出産前に胎児の性別がわかるわけもなく、「シシィ」は世継ぎを生まなくては、というプレッシャーを抱えていたのです。
 前年5月には和解を確認するため、皇帝一家はハンガリーを訪問していますが、この時フランツ・ヨーゼフの母である皇太后の意見を退けて同伴した長女ゾフィーが旅先で急病で亡くなってしまいました。公務中にかけがえのない娘を失った皇帝夫妻に対して、反オーストリア勢力さえ弔意を表明したといいます。しかし、そんな悲しみのどん底にあっても「王子を産まなくてはならない」という無言の要求が、20才そこそこのエリザベートに向けられていたのです。あまりにも残酷というか、ロイヤル・デューティーの厳しさを垣間見てしまいます。
 生まれた男子ルドルフに対し、国も皇帝一家もこれ以上はないほどの祝宴をくりひろげます。エリザベートは、当時の王宮としては「常識外れ」であった母乳による育児を望みましたが、皇太后に一蹴されたそうです。皇太子の養育は皇太后の指示するところとなり、母親シシィは取り残されました。そして幼少期のルドルフには、皇太后の選んだ教育係によって、のちに「精神的外傷」と称されるほどのスパルタ教育が与えられるのですが、もしもエリザベートのいうように普通の母子のように母乳で育てられ、母親のもとですごしていたら・・・と思わずにいられません。案外そんなことでも歴史は違うものになったような気がします。
 13世紀、ハプスブルク伯ルドルフが、「ハプスブルク家は、ルドルフという名の人間によって始まり、ルドルフという名の人間によって終わる」と述べたという言い伝えを、皇太子誕生に沸くウィーンの街は忘れていたでしょうか。シャンデリアが落ちた轟音は、リンク通り建設の雑音にかき消されてしまったのかもしれません。
00:55 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
公式ブログ「ハプスブログ」オープン!!/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 ついに待望の『ルドルフ RUDOLF The Last Kiss』ブログが公式サイトのコンテンツとしてオープンされました拍手。松井るみさんの舞台装置の模型が素敵ですぴかぴか。トークショーに続いて一気に盛り上がってきましたね〜♪ 「我輩はハプスブルグである」の"続きを読む"をクリックするとキャストの集合写真右側に青山航士さんが。取り急ぎのお知らせまで〜。
『ルドルフ RUDOLF The Last Kiss』公式ブログ「ハプスブログ」
12:23 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
姉に残された遺書/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 あちこちブログめぐりをすると、ルドルフとマリーの関係を「純愛」として描く・・・のかな?という感じですね。確かにマリーの「17才」という年齢の持つ激しさには、ためらいや迷いの入り込む余地などないでしょうね〜。『ロミオとジュリエット』にしろ、『八百屋お七』にしろ、十代なかばの女性の一途な想いには、「純」という言葉すら瞬時に焼き尽くすようなマグマ的な激しさがあって、誰にも止めることはできないという気がします。死の十年ほど前から遺書を何度か書いていたというルドルフには、天使のような死神だったのでしょうか。
 マリーは当時の若い女性にアイドル的な人気があったルドルフに若い情熱の限りを尽くし亡くなったわけですが、お姉さんへの遺書には「好きな人と結婚するのがいいと思います」と書かれていたそうです。
 マリーの母親ヘレーネは、イスタンブルの大資産家の両親を早く亡くしたあと、後見人となった外交官ヴェッツェラと結婚しています。両親の友人だった彼は彼女より22才も年上で、財産目当ての結婚といわれたそうです。結婚後はウィーンに居を移しますが外交官という職柄もあって、自宅には母子のみという日が殆ど。マリーは両親の夫婦としての情愛を目にすることもなく育ち、成長してからは野心家の母やおじ達がひきあわせる名士とのおつきあい・・・と現代の一庶民の感覚で言うと、かなり特殊な家庭環境に育ちました。また、ヘレーネもかつてルドルフをめぐる女性の一人であったことがあるそうです。
 この世の「濁り」や「澱み」と縁を切るようにして「芝生の天使」は逝きました。生きて、好きな人と結婚するという夢が、彼女には見えなくなっていたのでしょうか。当時のウィーンを「自殺の都」と称した"A Nervous Splendor"の書評も見かけましたが、あの美しい街に、人の心を蝕む空気が満ちていたかと思うと、胸のふさがる想いがします。 
23:15 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
どうなる?日本版/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 原作"A Nervous Splendor"は1888-89年当時のウィーン全体をドキュメンタリーで見るような感じだし、ミュージカル版の話の流れがわかんないな〜、と思っていましたが、今日開催されたトークショーのレポをいくつかのブログで読ませていただいたところ、宮本亜門さんが台本の80%ぐらいを変更されているとか。
 断片的な情報しか知りませんが、確かにハンガリー版は、ハンガリーとハプスブルク家の歴史に関する素養を持たずに見ると辛そうですあせあせ。原作でのハンガリー貴族とルドルフの駆け引きは「あったのではないかと言われている」程度の比重なので、ハンガリー版のほうがかなり原作をいじっているんじゃないかという気もします。宮本さんは原作者のフレデリック・モートンとも話をされたということですし、その上での「80%変更」は朗報なんじゃないでしょうかるんるん
 それから原作でオウムを携えた大道芸人として登場し、役名発表のとき「人形遣い」だったヨハン・ファイファーは「手品師」になるとか。日本版演出の展開が見えるようで気をひかれますね〜。原作を読んでいる途中で、ヨハン・ファイファーが実在したかどうかはわからない、と書きましたが、今も原作以外で手がかりになるものは見つかりません。(ご存知の方、どうぞ教えてください)どうも当時の死亡広告から作者がインスピレーションを受けた人物のような気がするのですが・・・。彼の手からいったい何が飛び出すのでしょうか。
23:15 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
フランツ・ヨーゼフの傷/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
 皇太子ルドルフが最期の場所として選んだ狩猟の館は、遺言によって娘エリザベートに与えられました。ですが当時わずか5才の彼女には知る術もないうちにフランツ・ヨーゼフが「買い取り」ます。そして皇帝は政務と全く同じ精緻さで、ルドルフの死の痕跡をすべてなくすような大改修工事を行いました。ルドルフの愛したウィーンの森の狩猟小屋は、カルメル会の修道女達がルドルフとマリーのために祈りを捧げる修道院になったのです。
 フランツ・ヨーゼフの傷は、息子が絶命したその場所が決して冒涜されないものになることを求めました。この修道院は完全に俗世と隔離され、一本だけあった電話線も撤去されたといいます。ルドルフが最後に触れたもの全てをも葬る、この行動を解説付けるような論文を当時のフロイトはまとめています。・・・が王宮から15分、という距離に住むフロイト一家は意外なことに(?)「皇室ファン」だったせいか、マイヤーリンクに直接言及するような論文は残されていません。まだエディプス・コンプレックスという言葉はおろか、精神分析が認知される以前のことで、師とあおぐ研究者から批判を浴びていたフロイトは、この事件発生当時、コメントを求められるような立場でもなかったのです。現代マスコミが当時のウィーンにタイムスリップしたら取材が殺到しそうですよねバッド
 原作を読む前には、「うら若き美女と道ならぬ恋のすえに心中する、伝説の皇妃エリザベートの息子の物語ぴかぴか」と思っていたのですが、実際には現代にも通じる精神のひずみというか、「自分にとっての自分」と「社会の中の自分」の不協和音がひしめいていて、読み終わる頃には19世紀末ウィーンが目の前の時間の遠景として見えるような気がしました。弟も息子も妻も甥も亡くし、祖国は第一次世界大戦に落ち、死後まもなく帝国も解体してしまった皇帝の傷は、癒される事がなかったということでしょうか、マイヤーリンクのカルメル会修道院は、今もルドルフとマリーの弔いを続けているのだそうです。 
00:38 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |
ルドルフの遺書/ルドルフ RUDOLF The Last Kiss
JUGEMテーマ:舞台鑑賞

 ルドルフとマリーの二人が彼岸に旅立った後、遺書が数通残されていました。「自殺」であることが明らかになった1889年1月31日、届けられたそうです。母へ、妹へ、妻へ、そして何人かの信頼する人々へ・・・ですが父フランツ・ヨーゼフへの遺書はついに発見されませんでした。
 30日早朝とどいた「皇太子ルドルフ死亡」の知らせにショックを受けながらも、フランツ・ヨーゼフはいつものように午前5時からの執務につき、皇帝としての義務を果たしたといいます。不信心な自由主義者として知られていたうえ自殺したルドルフをカトリック教徒として葬り、マリー・ヴェッツェラの存在を抹消し、もろもろのスキャンダルを払拭するような荘厳な葬儀を執り行うために、的確で周到な指示を執務室から発し続けたそうです。玉座にどっしり座って臣下の報告を聞く「ヨーロッパの王様」というイメージとは程遠く、非の打ち所のない優秀な官僚という感じですね。
 生前のルドルフは、最高司令官会議の一員でありながら会議に招かれないことも多く、強引に出席し熟考した末の意見を述べても、父帝や閣僚らに無視されることが殆どだったようです。ルドルフの指摘には現代から見ると先見性に富んだものが多いのですが、同時にそれは帝国を維持するようなものではなく、父帝はルドルフの打つ電報すべての内容をチェックし、息子が危険思想に傾倒しているとして危惧していたそうです。
 大帝国の君主であり、一分の隙もない政治家である父親に対し、ルドルフは死によって背を向けたのでしょうか。事件の直前に、この父子が王宮で話した際に、開け放たれたドアからフランツ・ヨーゼフの「わたしの後継者としてふさわしくない」という言葉を家臣の一人が聞いています。当初は高級娼婦のミッツィ・カスパーを誘い、単独の自殺ではなく「情死」というおよそ皇位継承者として相応しくない死に方を選んだことが、息子として最後の返事だったのかもしれません。ミュージカル『ルドルフ RUDOLF The Last Kiss』がどんな物語として描かれるのか相変わらず分らないのですが、原作"A Nervous Splendor"を読んでいると、がんじがらめにされ傷を負ったまま宙ぶらりんになった二つの魂がふっと寄り添ったような感じがします。現代のネット上で形成される危うい関係に近い感覚かもしれません。
 母エリザベートへの遺書には「死ぬしかありません。人(マリー)を殺したのですから」とあるそうです。自ら殺人者となり、自殺をとげることが、一個の人間としての生き方を阻まれたことへの復讐だったのでしょうか。彼の政治的な夢がこの世で実現していれば第一次世界大戦は避けられたのに、と多くの人が思っているこの現代を、ルドルフの魂が見ることはできるでしょうか。
23:53 | ルドルフ RUDOLF The Last Kiss | comments(0) | trackbacks(0)| - |